植物や空のような

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前回文章を書いた翌日に、休刊になってしまった雑誌があった。
その後も、さまざまな箇所で、「これはさすがに良いことではないね、それなのに社会に出してごめん」というような
世直しされゆく出来事がいくつも起きた。
うん、これが今年なのだねえ。

わたしも、もうひとつ
過去に誤って解釈していたものを思い出された初秋で
すこし痛みをぶりかえしてしまった。
絵の世界で著名になることと、
暴力や攻撃が肯定されていた出来事のつながり。

かかってきたいたずら電話は男の人と女の人の声が同時に漏れていた。
女の人はその頃の友人で、仕事仲間でもあった。
とても怖い電話で、その場で腰が抜けるほど。
その出来事はその後にも影響を与え
わたしはすっかりその子のいる場に顔を出せなくなった。
男の人も、相当怖かった。
絵の先生である人、教え子である子。
直後に彼から賞を受け取ったその女の人。

打ちひしがれたし、あの頃は華やかに飛び出していく彼女が少し羨ましかった。
電話の背景は誰も知らない中、ただ彼らの発展は留まることなく伸びやかに育ってゆく。
自分の怯えて動けなくなった体や気持ちは、情けないやら悲しいやらだった。

15年も前のことなのに声は今も昨日のもののよう。だけど
それを捉える気持ちだけは大きく変わった。

彼らのその行為は、彼らの中で肯定されたものだし
成功への足がかりや楽しみの時間になっているならそんなのは自分にはどうでもいいし、かまわないことだ。
わたしがショックを受けたのは、あまりにも自分の中でひどい出来事だったからだ。
それは自分の基準でしかなかった。

そのことを相当強烈に教えてもらえた後はただ
自分には受け入れられないものは何か、はっきり見せてもらったこととして
ただ横たわる記憶の層へなってゆくだけだった。

過去に引き戻され胸が苦しく一瞬なったけれど
そんな方法で発展したり成功しても、自分にとっては意味をなさないと、
改めて教えられたのが、
今回の記憶の巻き戻しだったんだと思う。

過去に羨んだこと、打ちひしがれたことはもう、
そんな世界はないことを教えてくれた。

イメージで願うことと、現実に出来ること、そういったことたちを
一個一個紐解くと、
自分にとって大切なこと、守りたいこと、やっていたいこと、人に手渡したいことなどが
明らかになる。
その過去のいたずら電話には、自分の望んでいることは一個も入っていない。
それを基礎にした後の発展も、羨むものではない。

そんな当たり前のような思いも、発展や成功という部分でしか測れないと、見えてこない。
大切なのは結果だけでなく、過程も、その一瞬一瞬の時も、すべてだ。
結果が良い世界に行けるのなら、何をしても良いなんていうことはない。
誰かを傷つけて、暴力を肯定していいわけではない。

わたしはあの子達の元にある暴力を、あの頃なんとか必死で否定しようとした。
「体を大切にして。守らなくてはいけないことがあるよ」と伝えて。
それでも結果はその思いを凌駕して
「こういう結果を望んでいたのであれば何も言えない」という気持ちを作った。
彼らにとっては正当化された世界だろう。それでも、
何か、暴力や支配や攻撃やコントロールみたいなことが起きているのを知った時に
何かできなかったのかと、改めて思い返す今があった。

当時は何かしようとしても影響を与えられないくらいの、若い20代の駆け出しの者と思っていた。
だけど今の社会を見ると、そう思い込んでいた自分を恥じるのだ。

どんな結果があってもそれがどんなに素晴らしくても、どんな立場で関係であっても
否定すべきもの、助けるべきものはあるのではないだろうか。
罪を憎んで人を憎まず、それを、実践していかなくてはいけない。
人には人の世界があり事情がある、その背景にある人間性は皆、植物や空のように美しく移ろいゆくものだと今はわかっているのだから。


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by arica_11 | 2018-10-16 00:20 | nekkonoarika | Comments(0)

Gallery & Art therapy room atelier yufu taratineにて、風景画と人物画で表現するアートセラピー活動も行っています* http://nemotyucac.exblog.jp


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