ただひとつの、光への信頼を。

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人が自分の思惑と違う時、認知的不協和という状況になる。
それを解消するまっすぐな手段は、人それぞれ、しかし皆繋がり関わっていると迎え入れることで
平坦なやわらかい思考になるだけなのだけど
認識を変える必要がある場合、それは簡単なことではない。
固く凝り固まった武装の思考から、突然のやわらかな発想への転換は確かに難しいだろう。

そう、自己改革は難しいから
相手を誤ってると決めつけ怒ることや
相手は自分を理解できないのだと決めつけ見下すことが
変わらなくて良いという自己正当化を素早くもたらし
不協和を解消する方法に選ばれてしまう。
自己正当化のために、人を犠牲にする思考が確かにあるのだ。
だから怒られ身下されるようなことが起きても、
実際は非のない人ばかりかも。


認知的不協和は、意見の違いや仕事上必要な注意の後に起き易い。
物事は善悪も優劣もなく、ただそれだけのことである。
その事実への対処に、相手から怒りが起きたり、敬意のない言葉が生まれる場合は、
相手が認知的不協和を解消できずに自己正当化してると考えて。
自己愛をコントロールできない問題でもある。

ボランティアが当然との怒りが起きた際などは
適正価格の話が出ただけのことや
ボランティアで行う必要のない場面にも関わらず
相手が自己保身により予算を支払いたくない意識を発動させ、不協和が起きていた。
常識的なやり取りに、怒りや否定が起きるので
受けた方は意味が繋がらず、一瞬何が起きているかわからない。

わたしも「家族だと思っていたのにみんなはボランティアなのに、あなたはビジネスなんですね!」とか「仲間からお金を取るなんて!」と
適正価格の話をして怒られ対価が無しになるなどもあったし
お金はいいですとなってしまうこともあった。
もちろんその身を引く方法の方が間違っていて、親しくなり過ぎて甘えが起きた状況なのに
親しみの先にある怒りや我侭が、社会でさえも起きることは
つくづくなかなか慣れないし、通常起きないことなので対応が遅れる。
社会は助け合って補い合って成り立ってる場所の認識が、大人同士にはあるので
一瞬怒らせた自分が悪いと判断してしまうのも、怒りの支配で起き易い。

認知的不協和理論を知っていると、
相手の怒りはこちらの問題ではなく、常識や社会通念に対して不協和が起き解消しようする相手の未熟さの問題で
起きている出来事とわかる。

またそんな時に見るべきは、
自分がその仕事や事象や人に、どのように関わっていたかである。
仕事も人間関係も,必ず思い遣りや配慮から関わってるのが見えてくる。
これは完全に自己肯定がないと判断しにくい。
だからこそ、平常時の自己肯定、自己受容は大切なのだ。
自己否定や罪悪感こそ、つくづくいらない持ち物とさんざん記してるのにね。

しかしこの自己肯定感も、不協和の解消の際に他者を否定するよすがにするのは誤っている。
自我やナルシズムや万能感を肯定するのではなく、人の存在そのものへのおおらかな受容というのだろうか。
それは社会の中の自己という意味で範囲も広がってゆく。
その全てが肯定され受容されていることに目を向ける。
皆がそれぞれ認められている事実がある。
仕事上の注意や改善などはこれら共同体感覚をもとに起きる、
不協和の解消とは違うものである認識も必要だ。

肯定、自己受容に根拠も自信もなくてもいい。
ただそう感じられるだけで、
何も今、誤ったことは起きていないし、人が自分を苦しめるとか攻撃しているなんて思い込む必要がなくなる。
何を言われても、自己を否定されたことではなく、反発も必要ないことがわかる。

受容できていれば、安心は自分で作っているものだとわかるはず。
目の前の出来事は自分によるスクリーンの投影とわかるはず。

不安を持つから他者否定、自己否定が起きるし
自信がないから、他者を怒って威嚇し、自分で傷付き悲しむ。
不協和を、他者のせいにして楽になろうとする。

今とても大切なのは、すべてのひとの自己肯定感を高めることや、自己受容を増やすことなんだろうな。
更にそのために何かをしなくてはいけない、何かを持っていなくてはいけないなんてことも全くない。
ただ、「そのままの自己を、大切に愛せる技術の、必要」なんだろう。

多くを持っていること、立派な施設や仕事を持っていること
子どもや家族がいることなんかで、人は自分を保とうとするけれど
対象のものはどうやらいらない。
ただ自分を抱けるようなこと、誰しも持つ中の輝きに見惚れるようなひとときや思いを
大きく保てることの方がずっと大切だ。
その一点に集中するには、周りの光は余計よね。

周りで光を翳してくれないなんて!と怒ったり、自分にもたらしてくれないあなたは悪いと排除したりが
どれだけ意味のないことか。
中の炎に新たな薪をくべもしないで、何を他者に求めるのか。

あたたかな体内の光は自分への信頼によって絶えないものになるんじゃないかな。
自分は誰にも侵されず、誰も侵さず大丈夫なんだよという強さ。

わたしは今は
理不尽に怒られても傷付かないし、他者も自己も否定もなく、他者への反発もなくなっている。
心理や理論を知り、最初の相手を大切に思って取り組んできた自分の気持ちを汲めるようになり
中の光への信頼は、とても増えた。

最初のとっかかりの、あたたかな衝動、他者への思い遣りや配慮を、しっかり信じられる。
自分への信頼は、自分もちゃんと何か大きなものに守られ大切にされていることへの理解も増やした。
もちろんすべての皆も同じ状況だ。

だからどうかもう心配しないで、怖がらないでとも思う。
誰もあなたを壊そうとしてない、守ろうとしてるのだと。
助けようと、サポートしようと皆が手を取り合ってるのだと、とても思う。

そんな世界をみんなが取り持ってる信頼を、もっと広げていけたらいいなと
今年は思う。
人のもつ、罪悪感や自己否定をどんどんなくしてゆきたい。
不安や不信感をなくしてゆきたい。
ひとつの光への信頼を。
体内に浮かぶあたたかな輝く炎を目にしよう。

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by arica_11 | 2018-01-21 17:57 | Comments(0)

Gallery & Art therapy room atelier yufu taratineにて、風景画と人物画で表現するアートセラピー活動も行っています* http://nemotyucac.exblog.jp


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