現実にある量を見る

追記

償わないで済む暴力がなくならないのは、本当に、償わないで済むからなんだろう。
そして償わないままでいられることで、ほっとできるからなのではないだろうか。
そこには安心があったのか。
暴力を手渡しても許されると思い込める安心。

親しい中や、家族の中でなんかにときどきある価値観かもしれない。

投影同一視という心理がある。
例えば、自分の中の問題を相手に投影して、更に相手が問題を持っていると設定して
糾弾を正当化し(本当は自分への投げかけ)、更に相手はコントロールされて糾弾を受けとってしまう状況など…
という解釈で合ってるかな?
「自分一人で解消できない気持ちを、他人に投げ込んで、巻き込んで解消する」
とのことで、下記サイトを参考とさせていただいた。

暴力とは、送り手からは必ず正当化されるもので、
受け取る方も最初はそう解釈しがちなものなのではないだろうか。
そして日本は、暴力を受けた方に責任があるとか、間違ってるから仕方ないとか、
人のせいにするなという
目に見えない美徳の方に重きが置かれて
現実に起きている目に見える問題を、敢えて見ないのを良しとする性質があるのではないだろうか。

見ないのを美徳とし、問題は重要視されず、なくなりもしなくて
心の傷もずっと癒されないまま見過ごしてしまうのではないだろうか。
それが今扇のように広がってる最中なのではないだろうか。

暴力を手渡してほっとする安心、その安心はたしかに悲しいことだけど必要なものに感じる。
安心はそれくらい偉大なものだ。
一方暴力を受け入れる苦痛は、不必要なものだ。
受け入れる必要があるとずっと抱えている人を、見逃せない。手放してほしい。

ただ暴力を手渡さないでいられる心を育めていられたらいいことなのだけど
きっと連綿と続いている方法は、そんなに簡単に改善しない。
だからできることは知ることなんだろう。

文章などで目にしたり、それによって書籍を探せたり
最初のきっかけは小さな森の中の巣箱のような目のとまり方でいいと思う。

だけど景色の中にそれがやたら目について、違和感を覚えたら
調べて知って、とにかく多くの人が暴力を区分けてゆけたらと願う。
癒着して浸透して離れられないほどになる前に。
自分の中の一部とする前に。
区分けられることは、とりあえずのインターバルになる。
時間をかけられると、離れるのがうまくなってゆく。

んー、きっとあたたかい家庭しか知らず暴力が皆無の世界の人もいるだろうから
きっとこの文章は一部のこと。
それでもその一部がすべてでもあるから
小さな償わないで済む暴力とは、思う以上にものすごい量があるんじゃなかろうかと
ふと思った。












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by arica_11 | 2015-05-20 10:04 | nekkonoarika | Comments(0)

Gallery & Art therapy room atelier yufu taratineにて、風景画と人物画で表現するアートセラピー活動も行っています* http://nemotyucac.exblog.jp


by arica_11