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素敵な春分を!

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次の新月迄は、お休みいただきますね。
飛翔の春分をお迎えください!
素晴らしい春になるといいね*

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by arica_11 | 2017-03-16 11:30 | Comments(0)

戦いと安穏、充実とは

数年、心に棘が残るのが、暴力というものの質なのではないだろうか。
戦争やいじめなんかの本質。終わった後も、蝕み続けること。
すぐには解放されないこと。
経験させてもらって、理解を深められたことに、空に、感謝を感じ。。
空を仰ぐような気持ちになる。

あたたかさはゆっくりじんわり、目立たない。
静かでささやかで、ゆったり広がってゆく。
鋭さはなく、気付かないくらいのものだ。
刺激の少ないもの、それが、安穏だ。

刺激ははっきりわかりやすく、目立つ。
そして痛いときは本当に痛い。
休まるものとは本当に全く質が違う。休まる方はだって、刺激はほとんど感じられないから。

刺激的にわっと感じて爆発させて、その後心休めようとするのも、戦いの質だ。
心なんて本当には休まってないしほっとしてもないのだけど、その落差がわかりやすくて、気が抜けるんだと思う。

本当の休まりは、安まりは、
気が抜けるんじゃ無く研ぎ澄まされて感覚が鋭敏になりながら、静かで刺激が全くないものだ。
凪のような、エネルギーをたたえている、静けさのこと

抜けることと、満たすことは全く違うし、イメージさえも真逆かもしれない。
本当の充実には、何をも要らないのだ。




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by arica_11 | 2017-03-15 07:45 | nekkonoarika | Comments(0)

前途洋々に


誰かの痛みを請け負うことを願われる、それは
ともすると幼い頃から受け取ってきていて、例えば大病を患った後に、金食い虫と怒られたり罰が当たったと言われたりなどがそうかも。だから
慣れっこでもあり、だからこそ、他にそうではない世界を探し求めていたにも関わらず
心の中では自分の痛みを願う人を肯定していたの。
大事な人たちだった。
だからその願いをも肯定し続けてしまう。これは多くの人に気を付けてほしいことでもある。
大事な、愛したい、愛されたい人を肯定したい気持ちと
自分が痛むことを願われる思いを分けること。
自分の肯定にはOK出してあげても、自分が傷付くことにはOK出してはいけない。

わたしはこの部分は難しいところだと思う。
たぶん自分の思いを否定して否定されるのを受け入れて、自分が傷付くのにOKを出す人は多いのではないだろうか。
そんな経験ない人の方が多いかしらね?

今わたしがお仕事でできていることは、この部分の経験が大きいような気がする。
誰かの請け負ってほしい願いがその人を否定することだったら、請け負って携えた自己否定は特に若い頃子どもの頃ならとても深い傷になる。誰かの手助けとして行ってしまう、自己犠牲の選択。。
その傷を当たり前の普通のものとして捉えないと、痛がったら痛すぎて生きられない人だっている。
痛みを感じなくてはいけないのはとても苦しい。
信じてた人たち、愛したい愛されたい人たちから、傷付くことを願われたことを、受け入れたくない。

だけど自分の思いはその他者の思いには関われないから、安心してほしいの。
自分の持ち物は自分だけで守っていいし
他者の持ち物もそう。
自分の思いが他者にとって違っても不都合でも願っていないことでも、他者は全く逆を思っていたって関係ないの。
自分の思いは自分のものとして守って
だからこそ他者の思いも保護してあげれる。
自分の領域には関わらない問題がこの世にはあって
それらは他者の持ち物なだけ。

辛い思いを持ったまま震災を迎えて揺れが広がってしまった。
震災は、多くの人にとっても被害だけでなく、それまでの心の傷みを更に揺り動かす機会でもあったと思う。
ただただ受け取ってその他者の思いを肯定するしかできなかったのは、余裕があるようで逆で
余裕がなかったからであり、それだけ大きく揺れていたからだった。
そして自分の傷みに連動して引っ張って来れたからこそ、相手の傷みも知ることができた。

時が経ち、自分に余裕ができてやっと、あの時の大きな揺れを認識できた。
あんなに大きく揺れて不安で苦しかったのに、他者の揺れ迄請け負って。
でも大きく揺れていたからこそ受け取れたものだったのかもしれない。
吸収して、相手に返さずに済んだのかもしれない。

今は揺れで得たものを、排出している。
無理はできないし、素直になった。
領域を分けられるようになったのは、お仕事のお蔭でもある。
自分にできることが自分を助けてくれるのを見させてもらえるのは、ありがたいことだ。
得られたからできるようになって、できるようになったから助けられている。
そんな風に全て繋がって、未来へつながっていくみたい。
前途洋々ならいいな。







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by arica_11 | 2017-03-11 20:26 | nekkonoarika | Comments(0)

誰もが誰もを救いたいと願った日

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こうの史代さんの戦争を題材にした漫画を読んで同じように思う。
かつて誰かに壊れてもいいと願われたこと。
心がどうなってもいいと思われたこと。
そういった念を記憶させてしまうことが一番病に陥るのかもしれない。手放さないといけないのだけど
何年経ってもなかなか手を離れない強い痛みの記憶はある。
震災、だけどあの日は誰もが誰もを、壊れてもいいとは願わなかった。
誰もが誰もを救いたいと願った。
それだけは誇りに思ってほしい一日だと思う。

相手の願い通りの気持ちよさを相手に与えられなかったこと
相手が不満は人にぶつけていいものと捉えている場合
対峙した人に還ってくる否定や文句、怒りは
本来は受け止める必要のないもの。すぐに触らず捨てていいものなのだけど
突然ぶつけられるように飛んでくるそれらの「痛んで」「負けて」「勝たせて」「喜ばせて」と願われた念は
戦争に入っている念と同じ質でしかない。
小さな平和な日本の片隅にだって、戦争と同じ念は飛び交っていたりするのを知った。
一方、多くの人が大変である今を過ごす中、自分の家は平気だったからラッキーと思える人もいる。
そんなことをまだ引きずってるの?おかしいと卑下する人もいる。
経験がなければ解らないのもあるだろう、人の痛みにチャンネルを合わせるのは怖いのもあるかもしれない。
だから経験があるからこそ優しくなれる。
人の痛みがわかるようになる。
わからないまま、あの人なら痛んでもいいと直接痛みになるものを投げかけられる心が、
戦争をつくる。
一人一人の小さな日常に戦争をつくる基が根付いてることがある。
だからひとつの小さな投げかけが、戦争と同じように後にPTSDとなって、ずっと痛みをもたらし続けることだってある。
その人の後の人生を変えてしまうほど、残る場合だってある。
全て手放せない方が悪い問題ではなく、その届けられた質や残る大きさは、戦争の爪痕と同じ成分であることは確かにあるのだ。
だからこそ、探す。その質を解消する最善の方法を。
震災から7年経つが、まだ日は浅い。
まだ外せない記憶を持つ方も多いとわかる。
気持ちが楽になること、心から笑顔になれること
それらを全ての人に願うから
痛みや苦しみの取り扱いを教えてもらってるように思う。


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by arica_11 | 2017-03-11 12:28 | nekkonoarika | Comments(0)

寒暖の差があると

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良いことがあって、その反対側が目立ってしまった。春だからかな?
闇の方が勢力をもって、こんなあたたかい世界もあるのに何故?ってなっちゃった。
そしたら身体をこわしてしまった。ちょっとした風邪、むかしより随分と軽い。
今のうちに毒を出して、すっきりさせておくためかしら?
少し長い海外旅へ。。その前に。

失敗というのは、自分の癖から起きる。
出会いも、出来事も、全部自分の捉え方。
その捉え方を辛いものに設定していると、ずっとその方法を繰り返しちゃう。
幼い頃に決めた捉え方は、大人になってからも続くもの。
幼い頃のものが自分を辛くさせるのであれば、経験多い大人になってから決めた捉え方によって
楽に、気分よい方法へ変化させることはちっとも悪いことではない。

親しい人の「困ってるから一緒にやろう」や「一緒に何か創りたい!」という声を大事にしていた。
当たり前のことのようで、その背景が時に
「一緒にやって自分が困っているのを改善してほしい」「一緒に何か創って自分を喜ばせてほしい」という要求だけで構成されていると
一緒に行なって相手の満足を相手に与えられないことが、不満が還ってくる要因になる。
その不満は相手の持ち物。
こちらは干渉できないことなのに、過去のわたしは「共に創る」ことに重きを置いていたのでびっくりして申し訳なく思ったり責められて罪悪感を感じたり。
それくらい人と共に、一緒に、時を過ごすこと側に在ることを、欲していたし大切に思っていた。
「不満を人に解消してもらう人」と、共に時を過ごし側にいることさえ、欲していたり、大切に思ってしまうだなんて。
それは自分が「不満を人に解消してもらう人」を肯定していたからであり、自分もそんなところがあったからだし
本当に、それが当たり前の、幼い頃から日常の空間だったからであり。。
その日常がまた、別の人との時間を欲する原因であるのに、同じ慣れた方法を選んでしまう。
同じ思考を選んでしまって。
人は、気付かなければ
家族ができても子どもがいても仕事がたくさんあっても関係なく、
幼い頃の癖や身の回りの人から受け入れた方法を繰り返す。
それは自分で創った新しい環境にも、過去の解決できなかったことを引きずらせているということ。
新しい環境への変化は、それを抜け出させてくれる気付きのチャンスなのに。。

わたしは今の家族や仲間、居場所の安心感が、過去と同じ要求や不満解消に対峙したときの余裕をくれた。
他者の問題、持ち物に対峙したときは、線引きはできるようになった、けれど、
まだ完全に罪悪感が拭えるわけでも、どきっとしないわけでもない。
やっぱり本当は、人を使って楽になろうとしてほしくはないと思うのは心情かもしれない。
自分の問題や不満を、人を責めるような言い方で伝えてほしくはない。
だけど人は変えられない。とにかくこちらが勉強して、慣れて、安定していれば大丈夫。
他者の問題や不満を、自分の持ち物にすることはない。
彼らの持ち物として処理するための、きっかけを差し出せるくらいでいいのだ。
結局、こちらは笑顔で、安心安定してることしか、彼らの本当の救いにはならない。
解消できる他者を持たせておくことは、楽だけれど、彼らの救いにはならないのを忘れてはいけない。

過去は他者の問題や不満はわたしの罪悪感や責任感を動かすものだったけれど
今は、気付けば、自分が動かず相手を導ける方法をお渡しできるようにさえなっている。
アートセラピーをさせていただくようになり、その強さや確かさをいただけた。

動いてしまうことを知っているからこそ、動かないことを知られたし
他者の問題や不満で自己責任を感じてた気持ちを知っているからこそ、広く大きく見守れるようになった。
闇も、辛さも苦しさも、もう経験はしないけれど、大切な出会いなのだ。







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by arica_11 | 2017-03-10 19:50 | Comments(0)

もう必要ない世界が在る。

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こっちは赤字だったんだ!だからお金のことを考えるな だなんて言ってくる媒体さんはそうはいない。
だからこれはとても稀な経験。
ガードの大切さは経験からもよくわかっていたので、
過去にも先にもパフォーマンスという経験浅い媒体でしかそんな言葉は保護されたことはない。
経験あると豪語していた人たちを信じる気持ち、関係性を信じすぎた弱さ。
甘えの現場を保護してしまったミス。
誰もに甘えがあったからこそ、ずるさや嘘が保護され、反省も生まれないまま。
それが当たり前になっていた現場があったこと。
そんな場があることを知られたこと。

言葉や関係より、
心情や思いやり深さ、真摯で嘘のない態度を公平に見られる力を持てていないと。
わたしは表面的な繋がりに救いを求めるくらい、人との関係性を失っていた。
家族との関係を踏んでしまっていた。
家族との原点が、真実だと思っていた。

今の家族、そして身の回りの人たちには甘えも嘘も怒りも否定もなく。
助けあって、思いやりあって、誰かから奪ったり否定したりして満足する人はいない。
あの甘えの現場を保護していた頃の、悲しさや怖さの質は他に知らない。
あれほど辛いものはないかもしれない。

それを知られているから、離れてゆける。
改善して、新たな世界を構築して人へ渡すことができる。
暗い底を知っているから、明るい空を守れる。
どちらも知られてよかった。だけど
あんな苦しく冷たい世界は、もう必要ない。
あれは、戦争を肯定するような気配を知ったとも言える世界。

甘えることが許された上で奪って吸い尽くして捨てていい人なんてこの世にいないのに
そういう人を作ろうとする人は存在すること。
それを肯定する場があったこと。

わたしの新たな世界で、辛い人を作ることを肯定する場は作らないし
作らせない。
もう必要ない世界が在る。









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by arica_11 | 2017-03-07 15:45 | nekkonoarika | Comments(0)

過去に肯定してしまってた方

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パフォーマンスの反省話、つづく。。
パフォーマンス費や宣伝費をきちんと授けてくださることはありがたく、こちらのことを考えてくださった感謝からこちらもお返しの機会を設けようと考え、持ちつ持たれつが生まれる。
チュプキさんのように授けることを当たり前に捉えてくださる媒体さんもいるけれど、過去には
「あなたは前回受け取り過ぎだ、芸術はボランティアでやるべきで、こっちは赤字だったんだ」と後から怒ってくる媒体さんにも出会って。。
そんな後からの怒りは本当にびっくりで、そうなると感謝と相俟って怒りが生まれたのが申し訳なく、
鎮めるためにその時のプラスを全て授けてしまったり、本来お仕事として受けた分も無償に変えたり。。
持ちつ持たれつ…ではなく、「あの時あげ過ぎたんだから、今度は無償でやるべき」という考えが生まれてしまうような機会を経験した、そんな過去は、今迄のお仕事の中でも一番の反省経験で。

苦しんで選んで後から怒るなら、やってもらっても、意味がない。
自分の決断なのに他者のせいになって怒って威圧できてしまえば
そこにはお礼も感謝も喜びも消えちゃう。。
そんな簡単な支配で苦しみと怒りを目立たせ、感謝と喜びを霧消させる場に
身を置いてしまった反省。。

それは感情より人と共に在ることの方が、ずっと大事だったから。

愛情不足を引きずってることなのよね…。。

あの頃は人と時間を共にできることが嬉しくありがたく
だからこそ対象の人たちが大事で、自分の感情より彼らを優先する感覚を肯定してばかり。
共感ではなく支配さえも、受け入れるようになってしまった。
人へ感謝を渡すため、お役に立ちたいため、お礼をしたいため、愛情を欲するため
彼らの思い通りを優先させてしまってた。
それは、支配と破壊と崩壊を肯定していたということでもあるのに。
それはお互にある、愛情不足からの無理な要求と保護とも言える。

今は、共感と共有と共存が肯定されているけれど
過去の肯定は、本当に反省ばかりだったの。










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by arica_11 | 2017-03-06 20:22 | nekkonoarika | Comments(0)

Gallery & Art therapy room atelier yufu taratineにて、風景画と人物画で表現するアートセラピー活動も行っています* http://nemotyucac.exblog.jp


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