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喜怒哀楽、光の額縁

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主人と旅をし、ずっと運転してくれたことは頼もしく24時間ずっと共に居るのはとても楽しく
想像を超えて楽しいも頼りになるも、人に、もたらしてもらうことがあることが
嬉しかった。

かつて人の突然の激昂に怯えて謝罪して譲って全てを手渡したことは、
先方からの優しい返答を戻した。
謝罪が返り、仲が戻って、一瞬の怒りはなかったことになる…というのを
親しみや愛情と見て。
そう、DVの構造だった。
そのとき最も親しく、信じ、大事だった、血のつながりも感じていた思い。。
本当に自分の意識は低かった。

つらい記憶も、光の額縁となるだけで、
ちゃんといつだって寄り添ってくれている、素晴らしい喜びのある世界を際立たせる。
見るのは光、ただ辛さは光との違いを教えてくれるために在るだけだった。

日常には光も闇もうっすらと同化し、人の激昂は自分の罪悪感を際立たせ、その後の謝罪は緩急によって安心に代わったりする。
本来の世界には、怒りも罪悪感も悲しみもなく
優しくあたたたい思い遣りに満ちた楽しさと、元々の安心をたたえているのに、
それを選ぶことを手放して、罪の意識や恐怖を選ぶことを良しとしたりする世界がここにはあったことを
随分と見ていない、開いてない被われた世界と今は感じる。
被われている世界を良しとする、そっちが本当だと言うような意識は、自分への暴力だった。
あまりにも本質からかけ離れた闇を、本質や真ん中と捉えてはいけない。

真ん中はいつだって光があって、優しくあたたかく、安心がある。
何があってもどんなに苦しい状況でも、頼りになって、楽しいものだ。
それこそが本当の世界であることを信じていい。
その世界に包まれて安心に浸って、かまわないのだ。








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by arica_11 | 2017-04-12 13:28 | nekkonoarika | Comments(0)

陰陽 光の額縁

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聖地と言われる場所は、陰陽がはっきりしていてわかりやすく
日常はなんてわかりにくく、勉強の場なのか〜と思えて愛おしく。。
陰の部分は額縁のようなもの とシャスタで受け取った。
目の前に陽光があると逆に捉えられない、間に余計なものがあって、光が際立つとか
とはいえその余計なものもデザインとして捉えれば美しい絵画になるとか
光と繋がるのに、間の余計なものの存在は邪魔にはならないのだ とか。
シャスタは優しく聞けば応えてくれるイメージ。
そしてそっと授けてくれる気がした。
ここ寄って〜ってちょっと引っ張ったりだとかも。
だけど今回の旅で終始教えられるのは、陰の部分。
陰があることが、当たり前だと捉えながら
それであっても光を捉えることだとか、闇をわるいものと捉えないことだとかが、
テーマだった。

それで、「誰もが誰もを救いたいと願った日」だと思っていたあの日
わたしは「救われようとするな」って願われたんだった!と思い出して…苦笑した。
高層階で揺れが強くめちゃくちゃになった自宅から、全くものも落ちず揺れも少なかったという一階の実家へ避難したとき
普段住んでないからと実家の一部のひとに帰ってほしがられたこと。迷惑がられたこと。
実家は被害がほぼないから恐怖も被害も知らない。知らないから、避難する意味も気持ちもわからないという理由。
テレビの中の人達の方がずっと辛いだろうという理由。

経験がなければ想像ができなかったり、自分の見積を正しいと思い込んだり
自分は迷惑だから、他者はその迷惑を酌んで思い遣ってこっちを救うべきというのが
「避難した方にも、強要される世界」を見られたのが、あの日だったんだと思い知る。
避難した人が必ずしも助けられたのではないこと。。
避難先に元々いた住人の、経験したことない出来事を想像できない気持ちや、迷惑な気持ちの方が、
助けられるということがあったこと。
3月15日の深夜に怯えながら、お風呂も壊れていた自宅に引き返して泣いたことを思い出す。

同じような気持ちを得た避難者の方は、全くいなかったわけではないかもしれない。
全ての避難者が、快く受け入れられた訳じゃないだろう。
全ての人が避難者の気持ちの想像ができたわけじゃないんだろう。
人が辛い状況に晒されるのを知りながら
自分のいやだとか迷惑に思う気持ちを解消する方を優先できる人はいる。

こんな世界が、日常には時々ある。
怯えること、辛いこと、恐怖や孤独を感じること、日常生活が送れない状況になることなんかも
人から必ずしも思い遣られるのではない世界は、日常ならでは。
(とはいえわたしは選べない。。選びたくない。)

怖さがそれを引き寄せた?そんな簡単な話でもなく
助けられるのが当たり前だと期待したせいだ という話でもない。
怯えなかったらそんなことは起きなかった というだけでもない。

ただ、額縁のようにその出来事は、自分の中の優しさや思い遣りの存在を、教えてくれたんだろう。
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どういったことがあの状況では必要だったか、どんな思いがあったかなどを。
どんな思いが人を救うか、どんな救いが欲しかったかなどを。


自分の中の光がはっきり強まって、人に還元されやすい場所へ移動してくれたのは
あの日の、辛い経験の賜物だったのかと気付き。。

日常では、多くの光の額縁は溶け込み、接する人に同化する。
あまりにも暮らしに沈み込んでしまう。

聖地はそのあいまいな同化を洗い流し、くっきりさせてくれる気がする。
光を授けてくれるだけでなく、光の額縁を教えてくれる場所、とも言える気がする。
その2つがあって、美しさは際立つ。
輝きが増したりする。










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by arica_11 | 2017-04-09 19:19 | nekkonoarika | Comments(0)

戦いと安穏、充実とは

数年、心に棘が残るのが、暴力というものの質なのではないだろうか。
戦争やいじめなんかの本質。終わった後も、蝕み続けること。
すぐには解放されないこと。
経験させてもらって、理解を深められたことに、空に、感謝を感じ。。
空を仰ぐような気持ちになる。

あたたかさはゆっくりじんわり、目立たない。
静かでささやかで、ゆったり広がってゆく。
鋭さはなく、気付かないくらいのものだ。
刺激の少ないもの、それが、安穏だ。

刺激ははっきりわかりやすく、目立つ。
そして痛いときは本当に痛い。
休まるものとは本当に全く質が違う。休まる方はだって、刺激はほとんど感じられないから。

刺激的にわっと感じて爆発させて、その後心休めようとするのも、戦いの質だ。
心なんて本当には休まってないしほっとしてもないのだけど、その落差がわかりやすくて、気が抜けるんだと思う。

本当の休まりは、安まりは、
気が抜けるんじゃ無く研ぎ澄まされて感覚が鋭敏になりながら、静かで刺激が全くないものだ。
凪のような、エネルギーをたたえている、静けさのこと

抜けることと、満たすことは全く違うし、イメージさえも真逆かもしれない。
本当の充実には、何をも要らないのだ。




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by arica_11 | 2017-03-15 07:45 | nekkonoarika | Comments(0)

前途洋々に


誰かの痛みを請け負うことを願われる、それは
ともすると幼い頃から受け取ってきていて、例えば大病を患った後に、金食い虫と怒られたり罰が当たったと言われたりなどがそうかも。だから
慣れっこでもあり、だからこそ、他にそうではない世界を探し求めていたにも関わらず
心の中では自分の痛みを願う人を肯定していたの。
大事な人たちだった。
だからその願いをも肯定し続けてしまう。これは多くの人に気を付けてほしいことでもある。
大事な、愛したい、愛されたい人を肯定したい気持ちと
自分が痛むことを願われる思いを分けること。
自分の肯定にはOK出してあげても、自分が傷付くことにはOK出してはいけない。

わたしはこの部分は難しいところだと思う。
たぶん自分の思いを否定して否定されるのを受け入れて、自分が傷付くのにOKを出す人は多いのではないだろうか。
そんな経験ない人の方が多いかしらね?

今わたしがお仕事でできていることは、この部分の経験が大きいような気がする。
誰かの請け負ってほしい願いがその人を否定することだったら、請け負って携えた自己否定は特に若い頃子どもの頃ならとても深い傷になる。誰かの手助けとして行ってしまう、自己犠牲の選択。。
その傷を当たり前の普通のものとして捉えないと、痛がったら痛すぎて生きられない人だっている。
痛みを感じなくてはいけないのはとても苦しい。
信じてた人たち、愛したい愛されたい人たちから、傷付くことを願われたことを、受け入れたくない。

だけど自分の思いはその他者の思いには関われないから、安心してほしいの。
自分の持ち物は自分だけで守っていいし
他者の持ち物もそう。
自分の思いが他者にとって違っても不都合でも願っていないことでも、他者は全く逆を思っていたって関係ないの。
自分の思いは自分のものとして守って
だからこそ他者の思いも保護してあげれる。
自分の領域には関わらない問題がこの世にはあって
それらは他者の持ち物なだけ。

辛い思いを持ったまま震災を迎えて揺れが広がってしまった。
震災は、多くの人にとっても被害だけでなく、それまでの心の傷みを更に揺り動かす機会でもあったと思う。
ただただ受け取ってその他者の思いを肯定するしかできなかったのは、余裕があるようで逆で
余裕がなかったからであり、それだけ大きく揺れていたからだった。
そして自分の傷みに連動して引っ張って来れたからこそ、相手の傷みも知ることができた。

時が経ち、自分に余裕ができてやっと、あの時の大きな揺れを認識できた。
あんなに大きく揺れて不安で苦しかったのに、他者の揺れ迄請け負って。
でも大きく揺れていたからこそ受け取れたものだったのかもしれない。
吸収して、相手に返さずに済んだのかもしれない。

今は揺れで得たものを、排出している。
無理はできないし、素直になった。
領域を分けられるようになったのは、お仕事のお蔭でもある。
自分にできることが自分を助けてくれるのを見させてもらえるのは、ありがたいことだ。
得られたからできるようになって、できるようになったから助けられている。
そんな風に全て繋がって、未来へつながっていくみたい。
前途洋々ならいいな。







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by arica_11 | 2017-03-11 20:26 | nekkonoarika | Comments(0)

誰もが誰もを救いたいと願った日

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こうの史代さんの戦争を題材にした漫画を読んで同じように思う。
かつて誰かに壊れてもいいと願われたこと。
心がどうなってもいいと思われたこと。
そういった念を記憶させてしまうことが一番病に陥るのかもしれない。手放さないといけないのだけど
何年経ってもなかなか手を離れない強い痛みの記憶はある。
震災、だけどあの日は誰もが誰もを、壊れてもいいとは願わなかった。
誰もが誰もを救いたいと願った。
それだけは誇りに思ってほしい一日だと思う。

相手の願い通りの気持ちよさを相手に与えられなかったこと
相手が不満は人にぶつけていいものと捉えている場合
対峙した人に還ってくる否定や文句、怒りは
本来は受け止める必要のないもの。すぐに触らず捨てていいものなのだけど
突然ぶつけられるように飛んでくるそれらの「痛んで」「負けて」「勝たせて」「喜ばせて」と願われた念は
戦争に入っている念と同じ質でしかない。
小さな平和な日本の片隅にだって、戦争と同じ念は飛び交っていたりするのを知った。
一方、多くの人が大変である今を過ごす中、自分の家は平気だったからラッキーと思える人もいる。
そんなことをまだ引きずってるの?おかしいと卑下する人もいる。
経験がなければ解らないのもあるだろう、人の痛みにチャンネルを合わせるのは怖いのもあるかもしれない。
だから経験があるからこそ優しくなれる。
人の痛みがわかるようになる。
わからないまま、あの人なら痛んでもいいと直接痛みになるものを投げかけられる心が、
戦争をつくる。
一人一人の小さな日常に戦争をつくる基が根付いてることがある。
だからひとつの小さな投げかけが、戦争と同じように後にPTSDとなって、ずっと痛みをもたらし続けることだってある。
その人の後の人生を変えてしまうほど、残る場合だってある。
全て手放せない方が悪い問題ではなく、その届けられた質や残る大きさは、戦争の爪痕と同じ成分であることは確かにあるのだ。
だからこそ、探す。その質を解消する最善の方法を。
震災から7年経つが、まだ日は浅い。
まだ外せない記憶を持つ方も多いとわかる。
気持ちが楽になること、心から笑顔になれること
それらを全ての人に願うから
痛みや苦しみの取り扱いを教えてもらってるように思う。


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by arica_11 | 2017-03-11 12:28 | nekkonoarika | Comments(0)

もう必要ない世界が在る。

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こっちは赤字だったんだ!だからお金のことを考えるな だなんて言ってくる媒体さんはそうはいない。
だからこれはとても稀な経験。
ガードの大切さは経験からもよくわかっていたので、
過去にも先にもパフォーマンスという経験浅い媒体でしかそんな言葉は保護されたことはない。
経験あると豪語していた人たちを信じる気持ち、関係性を信じすぎた弱さ。
甘えの現場を保護してしまったミス。
誰もに甘えがあったからこそ、ずるさや嘘が保護され、反省も生まれないまま。
それが当たり前になっていた現場があったこと。
そんな場があることを知られたこと。

言葉や関係より、
心情や思いやり深さ、真摯で嘘のない態度を公平に見られる力を持てていないと。
わたしは表面的な繋がりに救いを求めるくらい、人との関係性を失っていた。
家族との関係を踏んでしまっていた。
家族との原点が、真実だと思っていた。

今の家族、そして身の回りの人たちには甘えも嘘も怒りも否定もなく。
助けあって、思いやりあって、誰かから奪ったり否定したりして満足する人はいない。
あの甘えの現場を保護していた頃の、悲しさや怖さの質は他に知らない。
あれほど辛いものはないかもしれない。

それを知られているから、離れてゆける。
改善して、新たな世界を構築して人へ渡すことができる。
暗い底を知っているから、明るい空を守れる。
どちらも知られてよかった。だけど
あんな苦しく冷たい世界は、もう必要ない。
あれは、戦争を肯定するような気配を知ったとも言える世界。

甘えることが許された上で奪って吸い尽くして捨てていい人なんてこの世にいないのに
そういう人を作ろうとする人は存在すること。
それを肯定する場があったこと。

わたしの新たな世界で、辛い人を作ることを肯定する場は作らないし
作らせない。
もう必要ない世界が在る。









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by arica_11 | 2017-03-07 15:45 | nekkonoarika | Comments(0)

過去に肯定してしまってた方

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パフォーマンスの反省話、つづく。。
パフォーマンス費や宣伝費をきちんと授けてくださることはありがたく、こちらのことを考えてくださった感謝からこちらもお返しの機会を設けようと考え、持ちつ持たれつが生まれる。
チュプキさんのように授けることを当たり前に捉えてくださる媒体さんもいるけれど、過去には
「あなたは前回受け取り過ぎだ、芸術はボランティアでやるべきで、こっちは赤字だったんだ」と後から怒ってくる媒体さんにも出会って。。
そんな後からの怒りは本当にびっくりで、そうなると感謝と相俟って怒りが生まれたのが申し訳なく、
鎮めるためにその時のプラスを全て授けてしまったり、本来お仕事として受けた分も無償に変えたり。。
持ちつ持たれつ…ではなく、「あの時あげ過ぎたんだから、今度は無償でやるべき」という考えが生まれてしまうような機会を経験した、そんな過去は、今迄のお仕事の中でも一番の反省経験で。

苦しんで選んで後から怒るなら、やってもらっても、意味がない。
自分の決断なのに他者のせいになって怒って威圧できてしまえば
そこにはお礼も感謝も喜びも消えちゃう。。
そんな簡単な支配で苦しみと怒りを目立たせ、感謝と喜びを霧消させる場に
身を置いてしまった反省。。

それは感情より人と共に在ることの方が、ずっと大事だったから。

愛情不足を引きずってることなのよね…。。

あの頃は人と時間を共にできることが嬉しくありがたく
だからこそ対象の人たちが大事で、自分の感情より彼らを優先する感覚を肯定してばかり。
共感ではなく支配さえも、受け入れるようになってしまった。
人へ感謝を渡すため、お役に立ちたいため、お礼をしたいため、愛情を欲するため
彼らの思い通りを優先させてしまってた。
それは、支配と破壊と崩壊を肯定していたということでもあるのに。
それはお互にある、愛情不足からの無理な要求と保護とも言える。

今は、共感と共有と共存が肯定されているけれど
過去の肯定は、本当に反省ばかりだったの。










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by arica_11 | 2017-03-06 20:22 | nekkonoarika | Comments(0)

今のすべてに真実があって、幸福があった。


今は改善したけど、過去の悪かった時を見るべきで、心配するべきだから、
現在の改善の事実を目にしてびっくりする方が悪い、過去の心配の方を見るべきだなんて
ネガティブな景色だった。
心配と不安を肯定して、過去の事実を教えてあげたことに感謝しろというのは、
暴力的だった。
あなたは間違ってるというのを、言われたわたしが肯定してあげなくてはいけないのはもう
疲れちゃった。
わたしはもう、心配と不安は肯定しない、ほんのわずかでも、ポジティブな事実を喜ぶし信じるし
過去の事実より、現在の事実を信じるだけ。
そして嘘は、感謝できない。
否定も感謝できない。

過去では事実でも、今は違うなら。
ネガティブで暴力的で嘘で否定があることには、まったく感謝できなかった。
でも、このことは感謝できなくても
経験をくれたことは感謝できた。

そんな思考があることを知られたことは。
結果的にはすべて、肥やしになって、良い経験になって、感謝だけが自分の中に残った。
経験をした自分に感謝できた。
経験に感謝できた。
もたらしてくれたひとを尊べた。
こんなにネガティブで暴力的で嘘をまじえた方法を持ってして迄
経験と学びをくれたことをすごいと思えた。
成長をもたらしてくれたことに感謝できた。

この経験がなかったら
お仕事も、技術も、出会いも、喜びも、幸福度も
今程発展していなかった。
この今の世界が好きだから。
素晴らしい場所にやってこられたから。

幸福も光も、今の景色に抜けられた、喜びの中にあった。

全身にあったのだ。






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by arica_11 | 2017-02-01 05:31 | nekkonoarika | Comments(0)

人の想いは誰にも操作できない。

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人の想いは誰にも操作できない。
「あなたは誤ってるから正せ」という言葉が届く。以前はびっくりして
謝って訂正していたし、譲っていた。
今は、そういった否定的な言葉を人に投げかけるような、個人の中で処理できない思想には
全く関われない壁を見る。
こちらの感情はこちらのもので、相手の感情は相手のものだけ。
誰も誤っていないし、誰もの感情がOKなだけ。
そう思考が変わっても、わたしにこういった他者のネガティブな投げかけが届くのは
以前は受け止めて、他者の思想を解消してあげられたからだろう。
他者の感情が楽になることが大事だったからだろう。
そんなの、本人にしか解消できないのに。

人の感情が違ってもOK、人がどう思おうと自分が正しいと思うならOKで
いいはずなのに。

そしてわたしの感情も、人の投げかけがあって、自分で受け止めて、ただ、今がある。
以前、人の分を解消したことは、誤っていた。
自分は苦しんで、譲ったり我慢したりを、人が喜ぶなら選んでいた。
それくらい、他者の感情の起伏は怖く、大事に扱っていた。
自分の感情を押し込めることができるくらい。

今は、ちゃんと自分の感情を出してあげられる、するとそこには
肯定しかないのだ。
自分が培って、考えて辿り着いた大事な思考。
誰にも侵すことはできない。
それなのに他者の分まで侵そうとする想いも、世の中にはあるということを
知られたことがとてもありがたい。
ありがたいけれど、もう関わることはできない。
それが人の想いを敬い、尊重するということだ。
本当に人を大事にすることだと思えるようになったから。


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by arica_11 | 2017-01-25 14:17 | nekkonoarika | Comments(0)

褒めてあげてね

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怖かったものに感謝して
怖く思う感情を悪いものに思っていた。
良い悪いはないし
そう感じたことで学びになってプラスになったのはわかってたし
感じたことにはOK出せていても
自分に「よく捉えた、よくやった」なんて褒め言葉、あげてなかった。
あげちゃだめだと思っていたし、自己憐憫になっちゃうと抑制して。
光を見るときネガティブな感情をポジティブに変換しがちだけれど
変換ではなく、肯定だった。
その存在がそこにあったのを赦すことだった。
赦して、褒めてあげるくらい愛してあげていいの。
心から全肯定していいのだった。
まるで家族への気持ちみたいに。

ジャッジしないで、自分の全てを肯定していいのに
なんで怖かったり悪いと思う気持ちになってしまったりするのだろう。
この過去からの引っぱりを持っているわたしは
他の方の過去からの引っぱりも、気にかけることができるだろう。
多くの糸で繋がれている今の後ろ髪を引くような思いを
もっと消し去ってあげられたらいい。

経験はミッション^^
それで必ず完遂するものなんだろう。
なんだか本当に人はすごい。
自分の中だけで完結解決できちゃう。
そしてあたたかくなれて、にっこりほんわりと
幸福にもなれるのだ。










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by arica_11 | 2017-01-19 03:05 | nekkonoarika | Comments(0)

Gallery & Art therapy room atelier yufu taratineにて、風景画と人物画で表現するアートセラピー活動も行っています* http://nemotyucac.exblog.jp


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